じょんしゅう日記

映画や本の感想が中心

『アナと雪の女王』と、映画館で歌うこと・音を出すことについて

さきほどこんなまとめをみていた↓

「ここ映画館なんで・・・」アナと雪の女王の『みんなで歌おう版』で歌った観客が苦情を受け激怒 - NAVER まとめ

 

アナと雪の女王』は私も見た。面白かったのは、チケット引き換えのために並んでいたら、このまとめでも問題になっている「みんなで歌おう版」が販売中チケット一覧に表示されていたということだ。私のチケットはそのバージョンのやつではなかったので実際に体験したわけではないが、どうやら、上映中、歌の場面で、歌詞を見ながらみんなで斉唱(多分合唱ではないよな?)するものだという。

今たいていの映画館では、みんな静かに鑑賞しており、音を出さないように気を使っているように思う。時折音を出してしまうと、何となく申し訳ない気持ちになる。私もそうした現在の映画館の規範を内面化しているフシがある。

デートの時に映画館を選ぶことには賛否があるが、それはどちらもこの規範と無関係ではないように思う。賛成派の意見としてよく耳にするのが、会話が苦手な人にとって初デートなどでは会話のいらない映画は良いのだというもの。反対派の場合は、映画というのはせっかくのデートなのに会話が出来ないからいかんというもの。ここでは映画館では会話などの音を立てるコミュニケーションは考えられないということが前提となっている。

また、以前、映画館でのフィルムコンサートに行ったときにこんなことがあった。入り口でサイリウムを渡され、上映が始まると光ったサイリウムを降り始めるのだが、誰も声を出さない。私含め、みんな無言で席に座りながらサイリウムを振っているというなんとも奇妙な空間であった。その時たまたまそうだっただけかもしれないし、単に恥ずかしいだけの人もいるだろうが、映画館で声を出して良いのだろうか、という気持ちもあったのではないだろうか。

冒頭にあげたまとめでの騒動にはこうした規範が深く関わっているだろう。

しかし現在とは異なり、映画の鑑賞というのはかつて、様々な音に満ちた中でなされるものだったのではないだろか?ということは、以前に音楽研究書の『聴衆の誕生』で書かれていた音楽コンサートでの観客の聴取スタイルについての箇所を読んで以来、漠然と思っていたことだった。

そんな中、少し前に加藤幹郎『映画館と観客の文化史』(2006)という本をめくった。そこに映画館の静粛性のことが書かれており興味深く読んだ。加藤によれば、例えばアメリカのサイレント初期の上映空間は「祝祭空間」とでも言うべきもので、観客の歓声、指笛、口笛、映画についての意見を語るおしゃべりや、米語がわからない移民の知人に対して翻訳してあげる声などで満たされていたようである。そして、1910年代なかばまでのニッケルオデオンでは「静粛性」を求める案内表示が出されるようになるというが、一方で上映の合間にはスライドとその伴奏音楽にあわせて観客が大合唱するような空間であり、観客はそのスライドショー付き館内合唱を映画と同じくらい楽しみにして来館していたというのだ。また、1930年代の映画館では、当時入退館自由であった観客の出す音、野次や歓声が飛ぶことも珍しくはなかったようである。日本でも同様に、1930年代後半の映画館では映写中に「芝居でもみてゐるやうな気で弥次つたりする連中」、上映後に拍手を送る人々がいたようである。

余談だが、ベンヤミンが論じた映画の気散じ的な受容というものの背景にも、こうした鑑賞スタイルがあっただろう。

映画館は、こうした祝祭的な、映画の音響以外の音に満ちた空間であったというわけだが、しかし加藤によると、映画館を満たしていた音は次第に「雑音」として排除されてゆくことになる。「芝居でもみてゐるやうな気で弥次つたりする連中」と記したのは当時の映画雑誌だが、それは音を出さずに見る観客と音を出す観客とを分けて、前者を規範的な観客モデルに、後者を雑音を出す連中として対置し、後者を排除するための言説であったという。この規範が推し進められると、映画館は厳密に静粛性の求められる、個々人が直接スクリーンの物語に没入するような空間になっていくのだ。

上映中に眠る男のイビキに怒ったある観客についての体験談の中で、著者はこう言っている(284-285頁)。

映画館はかつては(インドなどでは現在でも)さまざまな雑音に満たされた空間であった。隣同士の親しげな会話、上映技師に浴びせられる観客の罵声(現在なら携帯電話の呼び出し音)など、多種多様な雑音が上映中の映画の音響とたえず混じり合う場所である。映画館に強度の静粛性がもとめられるようになったのは、一一〇年ほどの映画史においてもつい最近のことにすぎない。

厳格な静粛性の規範が作動するのであれば、おそらく映画の中には、静粛な、個人的な、没入型の鑑賞スタイルを前提に作られる作品もあるのではないかと思うのだが、実際の所どうなのでしょうか。

いずれにせよ、みんなで歌う映画、『アナと雪の女王』が上映されたというのは結構面白いことなのかもしれない。「映画館では静かにするのが当たり前である」という規範が広く共有されているであろう現状に何か影響を与えるだろうか。実際に他のいわゆる普通の映画の上映中に、かつてのように歌や歓声が聞こえ始めるようになるということはあまり無いだろうなとは(何となく)思うが、しかしこうした音を立てる鑑賞の在り方がもう1つの鑑賞スタイルとして広まるのか?広まらないのか?どんな風に?といったところは興味深く見守りたい。

ところで、まとめにあるようなケースではなく、非常に大盛況の場合の「歌おう版」、つまりみんなで歌いまくってる「歌おう版」の上映中に、おしゃべりや歓声をあげたらどんな反応になるんだろうか?というのが結構気になる。

 

 

映画館と観客の文化史 (中公新書)

映画館と観客の文化史 (中公新書)

 

 

読書メモ:『ハダカデバネズミ』

吉田重人、岡ノ谷一夫『ハダカデバネズミ―女王・兵隊・ふとん係』岩波書店(2008)

まだまだ研究がそれほど蓄積されていないようだが、ハダカデバネズミが鳴き声を使って階級を確認しているのではないか、という話や、地中のトンネル内の環境に適応した聴覚や鳴き声の特性を有しているのではないかという話など面白かった。

あるいは大学でのハダカデバネズミの飼育、研究の際に、停電や学園祭といったものが心配の種になるという話も興味深かった。停電が困るというのはわかるが、バンドのライブの際の大音量や振動が、学園祭の時期の寒さなどと共に、ハダカデバネズミにとっては危険でさえあるというのはなるほどと思った。「一部のデバは気が立って殺し合いを始める」、などということもあるそうだ。私も学園祭のライブ演奏に対してうるさいなと思うことはあるし、それによって読書が出来ないなどということはあり得るが、文学部などの場合は基本的には単に学校に行かなければよいだけである。あるいは音楽系の専攻であれば(バンドのライブほどの騒ぎではないとはいえ)毎日それなりに響く音が鳴っているわけで、いつの間にかそれが普通になったりもする。しかし研究室での飼育や実験を行う生物学などではそれらとは全く事情が異なる。学園祭の時にそんな苦労をしていたのかと、私には馴染みのない学園祭への視線が知れたのは面白かった。

本書の特設サイトではハダカデバネズミの音声や動画などを視聴できる。

http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0074910/

 

 

ハダカデバネズミ―女王・兵隊・ふとん係 (岩波科学ライブラリー 生きもの)

ハダカデバネズミ―女王・兵隊・ふとん係 (岩波科学ライブラリー 生きもの)

 

 

色々な音を真似する鳥

YouTubeBBCの生物動画を見ていたらすごいのを見つけた。
オーストラリアにLyre birdという鳥がいるらしい。日本語ではコトドリというそうだ。そのまま。
このコトドリは森のなかで聴こえたあらゆる音を模倣するという。
他の鳥の声、カメラのシャッター音、車のアラーム、チェーンソー…

この動画の後半、
カメラの音やチェーンソーは是非聴いて欲しい。驚き。




「モノマネが上手なオスほどメスにモテる」*1とのこと。

恐竜の声

恐竜の鳴き声と言われると何となくイメージは出来るが、
それは映画などを通して聴いたものだ。
ではその映画での恐竜の鳴き声は何であの音なのだろう。

うちにある『大人のための「恐竜学」』という新書に鳴き声の話が少し書いてあった。
その中で、パラサウロロフスの鳴き声に関する研究が紹介されており、
検索してみたところパラサウロロフスの鳴き声を再現したものが聴けるサイトもあった。
白亜紀の声〜パラサウロロフスの歌〜
パラサウロロフスの場合、特徴的なトサカを持っている。
そのトサカの構造を調べて、その構造では音がいかに鳴るのかを研究したようだ。

追記:YouTubeにもパラサウロロフスの声の再現音源がある。

上記のサイトにも書いてあるが復元されたパラサウロロフスの鳴き声は管楽器のような音だ。ファゴットみたい。
アンリ・デュティユー《サラバンドとコルテージュ》を思い出したよ。


同じ本の中で『ジュラシックパーク』での恐竜の鳴き声に関する記事が紹介されていた。
ティラノサウルスの声はジャックラッセルテリアの声、
ヴェロキラプトルのうめき声は亀の交尾の音、
その他複数のシーンで馬の声も使っているとか。
『ジュラシック・パーク』の恐竜のうなり声は、カメの交尾の音を録音して作られていた! - シネマトゥデイ

もっと最近の恐竜映画だとどうなってるのだろう。
あとで調べてみようかな。

ところで恐竜って何故鳴くのか。
そもそもほんとに鳴いたのか。
色々気になる。

ルー・リードの追悼に代えて――ヴェルヴェット・アンダーグラウンド/レボリューション

ルー・リードが亡くなった。僕はBerlinが好きでよく聴いていた。
ただ、ここでBerlinについて書くつもりもない。きっとソロでのアルバムについてとか、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのアルバムについては、色々な方が書いていくと思うし。
というわけで、これは、それほど注目されることもないであろう、ルー・リードヴェルヴェット・アンダーグラウンドビロード革命(ヴェルヴェット・レヴォリューション)について書いたものである。
こんなものが追悼となるのかは疑問である。というか、「こんな人にも関心ある私ってカッケーしょ?ってアピりたいだけ(byリカさん)」なのかもしれないが、何となく、こうしたくなったので載せるのである。


当初、60年代後半のニューヨークにおいて政治的な活動を行ったわけでもなく、またそのような文脈とは全く関係が無いかのように見えたヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードが、チェコスロヴァキアの民主化運動に(図らずも)関わったことがある。1968年の「プラハの春」や同年8月のソ連によるワルシャワ条約機構軍の軍事介入の前後から、共産党政権を崩壊させた無血革命である、1989年の「ビロード革命 Sametová Revoluce、Velvet Revolution」前後においてである。
チェコスロヴァキアの革命と音楽の関係においておそらく最も言及されるのは、1990年の「プラハの春音楽祭」で、亡命先のイギリスから42年ぶりに帰国したラファエル・クーベリック指揮によるベドルジハ・スメタナ作曲《わが祖国 Má Vlast》が演奏された出来事であろうか。あるいはビートルズだ。ビートルズが1968年に発売したヒット曲、〈ヘイ・ジュード Hey Jude〉は、発売と同年、歌手マルタ・クビショヴァによってチェコ語でカヴァーされている。その内容はオリジナルにおける家庭の事情を歌ったものから、辛い時代を生きる人々へと、よりメッセージ性の強いものに変えられた。彼女は1970年に音楽界から追放され、チェコ語版〈ヘイ・ジュード〉のレコードも回収されるが、この曲はビロード革命に到る約20年の間、抵抗の歌として密かに歌われつづけたという*1
一方、ヴェルヴェッツにおいては、革命前後にチェコで直接的に何かをしたわけでもなく、ビートルズのような目立ったエピソードも無い。とはいえ、劇作家であり、この民主化運動のリーダー的存在、そして革命後に大統領となったヴァーツラフ・ハヴェルクーベリックをイギリスから呼んだのも彼である)はヴェルヴェット・アンダーグラウンドについて次のように述べている。

私が言いたいのは、音楽、アンダーグラウンド音楽、とりわけヴェルヴェット・アンダーグラウンドというバンドのレコードが我々の国の発展において重要な役割を担ったということです。合衆国の多くの人々はこのことに気が付いていないと思います。*2

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは、アンダーグラウンド・シネマをはじめとするヒップでキャンプなニューヨークのアンダーグラウンドなコミュニティに属していた。この彼らの活動は、普通の意味では全く「政治的」ではなかった――ジョン・リーランドによればヒップの敵はアンガージュマンである*3。それどころか、極めて限られた私的なサロンのような場所で聴かれていたように思われる。少なくともマクロな意味での政治には関わろうとしていない。彼ら自身、ウォーホルのポップ・アート作品のように「デタッチメントを保ち、究極においてニヒリスティック」*4であったともいえる。ではいかにして、どのような意味で、この革命とこのバンドが関わることになったのか。

先ほど触れたビートルズチェコ語で歌った歌手クビショヴァの友人でもあったハヴェルは、1977年に憲章77の声明を発表し、その中心人物として告発された。そして同年に「国外における共和国の利益損傷謀議」として有罪判決を受けている。憲章77は人権擁護運動の中心をなす声明・署名として後のビロード革命の基礎となったものである。ハヴェルの語るところによると、この憲章77のきっかけとなった一つの大きな出来事は、プラハのロック・バンド、プラスティック・ピープル・オブ・ザ・ユニヴァース The Plastic Pleple of The Universeの逮捕であった*5。プラスティック・ピープル・オブ・ザ・ユニヴァース(以下PPU)は批評家のイヴァン・イロウスがバックについて活動していたが、このイロウスとハヴェルに人的繋がりがあったのである。そして、イロウスおよびPPUは1976年に反社会的な活動をしているとして逮捕された。

これはもはや二つの対立する政治グループ間の戦いなどとは全く関係なく、もっと悪いもの、全体主義による生活自体への、人間の自由と不可侵性への攻撃だったのです。攻撃の対象は(…)政治的過去を持つ人間でもない、それどころか、いまだかつて明確な政治的見解をもったこともない人間であり、ただ自分のやりかたで生きたい、好きな音楽を演奏し、歌いたいうたを歌い、自分自身に納得して生き、正直に自己表現している若い人たちだったのです*6

後に自伝の中で上のように語ったハヴェルは、この時のPPUの逮捕が不当であるとして活動を開始した。「なにかをしなければならないことは明らか」であったという*7。そして、このPPU事件をきっかけに、何か活動をしようと集まった人々によるグループこそが、後に憲章77の中心的な核となるグループなのであった*8

PPUは偶然にもルー・リードジョン・ケイルヴェルヴェット・アンダーグラウンド以前に組んでいたバンド名と同じプリミティヴズというプラハのサイケデリック・ロック・グループと融合して活動していた*9。PPUのバンド名はフランク・ザッパの楽曲のタイトル〈Plastic People〉からとられたものであるが*10ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの影響の下に誕生したバンドでもあり、たびたびヴェルヴェット・アンダーグラウンドのカヴァーを演奏していたという*11。PPUは、ノイジーなサウンドを奏で、ヴァイオリンなどの弦楽器の導入、尺の長い楽曲、暴力的で執拗な反復といったアヴァンギャルド・ロック的な特徴を持ち、またウィリアム・ブレイクカート・ヴォネガット・ジュニアなどの歌詞を用いるなど、文学との結びつきも強い。これらの点を見てもヴェルヴェット・アンダーグラウンドとの距離は近いということが伺えるであろう。ハヴェルもまた、このPPUの音楽的スタイルについて次のように語っている。

彼ら〔PPU〕の音楽のスタイルは、私が1968年にニューヨークからレコードを持ってきたヴェルヴェット・アンダーグラウンドから多大な影響を受けていました*12

発売当時、あまり売れなかったとして有名なヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコード*13が、チェコのバンド、PPUの手元にたどり着いたのはいかにしてだろうか、という点について正確なことはわからない。1968年5月から6月にかけて、ハヴェルは自身の戯曲『通達』の公演を行うために6週間ニューヨークに滞在した。この時ハヴェルは「白い文字の入った真っ黒い」ジャケットのレコードを持ち帰る*14。この説明によれば、それは同年1月に発売されていたヴェルヴェット・アンダーグラウンドのセカンド・アルバム《ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート》のことであるが、ハヴェルは後に、「1968年のニューヨークへの最初の旅で(…)彼らの最初のレコードを買った」*15という発言もしている。このようにハヴェルが入手したのがセカンド・アルバムであったのか、その前年1967年に発売されていたファースト・アルバム《ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ》であったのかははっきりしていないようだが*16、いずれにしてもハヴェルはヴェルヴェット・アンダーグラウンドの楽曲を聴き、「すぐに大のお気に入りとなった」と語っている*17。とはいえ、ここに引用した発言からはハヴェルによってヴェルヴェット・アンダーグラウンドがチェコにもたらされたかのような印象を受けるが、PPU結成メンバー、ベーシストのミラン・フラフサはハヴェルがレコードを持ち帰る前の1967年に、既にファースト・アルバムを聴いていたともいわれる*18。いずれにせよ、ニューヨークでもあまり売れていなかったようなヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードが発売からそう時間を置かずに、「チェコ・アンダーグラウンド」の場に出回り、聴かれていたらしい。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは、PPUに留まらず、チェコスロヴァキアのロック・シーン全体に影響を及ぼしたとも言われる*19

これらヴェルヴェット・アンダーグラウンドのアルバムの歌詞は、政治的に何かを表明しているわけではないし、そこから影響を受けたPPUにしても、いわゆる政治的なメッセージを表明する目的で結成されたわけではない。それは先に引用したハヴェルの言葉、「政治的過去を持つ人間でもない、それどころか、いまだかつて明確な政治的見解をもったこともない人間であり、ただ自分のやりかたで生きたい、好きな音楽を演奏し、歌いたいうたを歌い、自分自身に納得して生き、正直に自己表現している若い人たちだった」というものを見てもわかるだろう。
しかしPPUの音楽が政治的ではなかったとしても、その音楽を演奏する機会を奪われたことが、民主化運動の一つのきっかけとなり、力となった。トム・ストッパードの戯曲に、1968年のプラハの春の頃からビロード革命後までのチェコスロヴァキアのロックと政治の関係を描いた『ロックンロール』という作品がある*20。その序文でストッパードが言うには、PPUは共産主義を倒すことに興味は無かったし、そして「もちろん、共産主義を倒しはしなかった」。しかし、「絶対に妥協する気のなかった」このバンドは、その姿勢によって、活動空間の確保が困難になっていた*21。そのせいで彼らはやがて、はからずも政治的動乱に巻き込まれていくことになったのは既に見たとおりである。
そのPPUの一つのモデルとして、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの音楽――「絶対に妥協する気のなかった」もう一つの音楽――はニューヨークとは少し異なった意味で聴かれていったように思う。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドはその現れにおいて、どちらかといえば私的なバンドであったといえるのだが、それが1960年代のニューヨーク・アンダーグラウンドという時代・土地・コミュニティのコンテクストから切り離され、東欧の専制支配下の音楽家と出会ったとき、そのレコードは遠い異国における一つの理想的な表現活動の結晶として新たな社会的意味を持ったといえる。「絶対的な表現の自由―好きな事を好きなように書ける自由」の音楽といったようなものとしてである*22。活動当初ニューヨークにおいてはさほど支持を得なかったヴェルヴェット・アンダーグラウンドの混沌としたレコードが、チェコスロヴァキアのロック・バンドにとっては専制政治下における一種の(おそらく幻想を伴った)理想として働いた。ある種のロックが楽天的に政治を動かせると信じていたのと対照的に、きわめて限られた私的サロンのような場で聴かれていたと思われる初期ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードが、一つの自由な表現形態として文脈を変えて民主化のシンボルの一つとして意味を持ち、それがやがて民主化へと繋がっていった、と言えるのかもしれない。


ちなみに、ビロード革命後の1990年にリードはチェコのバンド、プルノックの生演奏を聴いているが、その感想を次のように述べている。

突然、その音楽に聴き覚えがあることに気が付いた。彼らはヴェルヴェット・アンダーグラウンドの歌を演奏していた―私の歌の、美しくて心を打つ文句なしの演奏だった。私は信じられなかった。それは一夜漬けでどうにかなるような代物ではなかった。*23

このプルノックというバンドはPPUのベーシスト、フラフサが立ち上げたバンドであった。リードはこの演奏を聴いて自らも共に演奏することを願い、共演する。プルノックの演奏は「まるでVUの心、魂を、優れたアイディアを吸収し、そして骨の髄までも吸い尽くしているかのよう」であったし、モー・タッカーとスターリング・モリソンとケイルが「後ろにいるかのよう」であったという*24。このリードの絶賛からしても、PPU周辺のアンダーグラウンド・ロック・シーンにおけるヴェルヴェット・アンダーグラウンドの浸透具合が垣間見えるだろう。プルノックのアルバム《シティ・オブ・ヒステリア City Of Hysteria》では〈オール・トゥモロウズ・パーティーズ〉の忠実なカヴァーを聴くことが出来る。

参考文献
ハヴェル,ヴァーツラフ 1991 『ハヴェル自伝: 抵抗の半生』 佐々木和子訳 東京: 岩波書店
Kugelberg, Johan, ed. 2009. The Velvet Underground: New York art. New York: Rizzoli.
Leland, John. 2004. Hip: The history. New York: HarperCollins.〔篠儀直子、松井領名訳 『ヒップ: アメリカにおけるかっこよさの系譜学』 2010 東京: ブルース・インターアクションズ
Mitchell, Tony. 1992. Mixing pop and politics: Rock music in Czechoslovakia before and after the Velvet Revolution. Popular Music 11, 2: 187-203
Reed, Lou. 1991. Between thought and expression. New York: Hyperion Books. 〔梅沢葉子訳 『ルー・リード詩集: ニューヨーク・ストーリー』 1992 東京: 河出書房新社
Riedel, Jaroslav. 2004. Liner notes to The Plastic People Of The Universe Man With No Years. London: Kissing Spell.
Sontag, Susan. 2001. Against interpretation and other essays. New York: Picador. Original edition, New York: Farrar Straus and Giroux, 1966.〔高橋康也、喜志哲雄ほか訳 『反解釈』 1996 東京: 筑摩書房〕
ストッパード, トム 2010 『トム・ストッパードII: ロックンロール』 小田島恒志訳 東京: 早川書房
Unterberger, Richie. 2009. White Light/White Heat: The Velvet Underground day by day. London: Jawbone Press.
松山壽一 2010 『音楽と政治: プラハ東独紀行とオペラ談義』 東京: 北樹出版

*1:松山 2010: 18-23

*2:Reed 1991: 151-152

*3:Leland 2004: 9

*4:Sontag 2001: 292

*5:ハヴェル 1991: 191-199、Reed 1991: 151

*6:ハヴェル 1991: 195

*7:ハヴェル 1991: 193-194

*8:ハヴェル 1991: 199

*9:Mitchell 1992: 196

*10:Mitchell 1992: 189

*11:Riedel 2004

*12:Reed 1991: 150

*13:ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ》は171位、《ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート》は199位が最高順位であった(Unterberger 2009: 136, 179)。

*14:Reed 1991: 154

*15:Kugelberg 2009: 7

*16:Unterberger 2009: 185

*17:Kugelberg 2009: 7

*18:Unterberger 2009: 175

*19:Mitchell 1992: 190

*20:戯曲『ロックンロール』は、2006年にロンドンのロイヤル・コート・シアターで初演され、2010年には東京でも上演された。日本公演は栗山民也演出、市村正親主演。

*21:ストッパード 2010: 27-28

*22:Reed 1991: 161

*23:Reed 1991: 159-160

*24:Reed 1991: 160

最近借りた本、買った本など

革命的群衆 (岩波文庫)

革命的群衆 (岩波文庫)

ジョルジュ・ルフェーヴルによる1932年の報告のテクスト。
フランス革命期、例えば散歩をしたり良い天気を楽しんだりするために集まっていたような人々が革命的な群衆へと変容していくプロセスを考えるという話。
ルフェーヴルは人間の群衆(foule)を動物の群れと同一視するル・ボン的群衆論と、群衆を自律的な個々人の集まりとしか捉えない革命史家的群衆論を批判した上で、
その中間の道を「集合心性」をキーに進んでゆく。
ルフェーヴルは群衆を「集合体」(agrégat simple)、「半意識的集合体」(agrégat semi-volontaire)、「結集体」(rassemblement)の3つに区分している。
これら3つは必ずしも明確には切り分けられないが、
「集合体」としては電車が通った後の駅周辺に出現する集団を例に挙げている。
「半意識的集合体」は例えば農作業や、ミサからの寄合い、寄合いからの飲み会などを挙げている。
この「集合体」や「半意識的集合体」が、「結集体」すなわち革命的群衆へと変容するプロセスを描くのだが、
そのとき重要となるのは集合心性(mentalité collective)だという。
集合心性というものが「結集体」以前の集合体において形成されていたために、そこに革命的群衆が生まれていくのである。
その、集合心性は、個々人の意識にまずは生まれるが、その上で心的相互作用(action intermentale)を通じて形成される。
心的相互作用は語らい(conversation)、例えば「夜の集い」(veillée)における語らいなどとしてあり、これらを通じて集合心性は形成され強化されるというのである。
非常に短い論考(文庫で本文60ページくらい)なのですぐに読める。


Robot Ghosts and Wired Dreams: Japanese Science Fiction from Origins to Anime

Robot Ghosts and Wired Dreams: Japanese Science Fiction from Origins to Anime

  • 作者: Christopher Bolton,Istvan Csicsery-ronay Jr.,Takayuki Tatsumi
  • 出版社/メーカー: Univ of Minnesota Pr
  • 発売日: 2007/11/15
  • メディア: ペーパーバック
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日本のSFをめぐる論文集。巽孝之氏が編者の1人である。
前半の第1部が文学、後半第2部がアニメについて。
編者でもあるボルターのパトレイバー論などを読みたくて。
ちなみに日本人の論考もはいっていて、小谷真理氏の女性によるSFに関する論考や、
東浩紀氏の「ハムレットとしてのSF」(河出文庫の『郵便的不安たちβ』所収)の英訳などがある。


小鳥はなぜ歌うのか (岩波新書)

小鳥はなぜ歌うのか (岩波新書)

動物行動学が専門の著者による鳥の歌の研究。
鳥の歌の種類や鳴き方からはじまり、鳴くのはなぜかという問いに答えようとする実験や結果について、
また環境と鳥の歌との関係、修得するプロセスなどを論じてゆく。最後は鳥の歌研究から人間の心理を考えるというものだ。
ここに書かれた研究結果が専門分野で現在どの程度通用するものなのかは知らないが、話として結構面白い。
例えば、縄張りを示すための鳥の歌が何故複数必要なのかという点については、
クレーブスによるBeau Geste(ボー・ジェスト)説というのがあるらしい。
ボー・ジェスト』というのはP.C.レンの小説であり、外国人部隊でのジェスト3兄弟のお話なのだが、
その中に次のような場面がある。
砂漠で敵に取り囲まれたとき、自分たちの周囲に、軍服と兜を身につけさせた案山子を立て、
味方の兵隊が大勢いると相手に思わせようとするのである。
鳥の歌が複数あるのもそれと同じであり、複数の歌を流すことで、数を多く見せ、縄張りを防衛する役目を果たすのだという。
なるほど面白い説です。
ところで、読んでいて用語に若干戸惑った。
この本では、シラブルを「句」と呼び、フレーズを「節」と呼んでいるのだが、
音楽をやっているとシラブルが音節、フレーズが楽句なので、
どうしても反射的にこの本とは逆の当てはめ方をしてしまう。
とはいえ、文化論など別の分野に関わるものにとっても示唆に富むであろう、
興味深い本でした。


現代建築に関する16章 〈空間、時間、そして世界〉 (講談社現代新書)

現代建築に関する16章 〈空間、時間、そして世界〉 (講談社現代新書)

「形態と機能」、「斜線とスロープ」、「全体/部分」、「レム・コールハース」、
「身体」、「歴史と記憶」、「場所と景観」など、
16のテーマのもと建築について建築物を例としながら考える。
それぞれの章で、テーマに関わる重要な概念を用いて論じていて勉強になる。
例えば全体/部分の章ではブリコラージュ、パタン・ランゲージ、伽藍とバザールが、
コールハースの章ならマンハッタニズム、ビッグネス、ジャンク・スペースといった具合である。
おそらく入門書としてかなり良い本で、これを読むと、触れられている様々な文献にも目を通したくなるだろうと思う。
例えば僕は青木淳の『原っぱと遊園地』、吉村靖孝編の『超合法建築図鑑』、ケネス・フランプトン『現代建築史』などが特に読みたいなと思った。
五十嵐氏の紹介によると、
吉村編『超合法建築図鑑』というのは、建築法規が生み出す風景を観察・報告したものらしく興味深い。
例えば、表参道のプラダの形態は斜線制限によって決まっている。法律が生み出す風景について知る良い文献となりそうだ。
また、フランプトン『現代建築史』は、視覚偏重のポストモダンヴェンチューリとか)を批判して、手触りとか響いている音とか、
五感を喚起させる経験としての空間を重視していると。フランプトンの論考はハル・フォスターの『反美学』にも入っているのだが単著も詳しく読んでみたい。

kindle paperwhite購入、電子書籍も。

kindle paperwhiteを発売前に頼んでいた。注文時、届くのは1月だと書いてあったのだけど、ある日、12月下旬にお届け出来ると通知が来ていた。そしてまたある日、12月16日にお届け出来ると通知が来ていた。
というわけで、届いた。

なんか液晶のムラというか若干の違和感は覚えつつも、概ね満足という感じかな今のところは。

電子書籍も無料のものも含めいくつか購入しました。

声の網 (角川文庫)

声の網 (角川文庫)

画像にもある星新一の作品。声の網つまり電話網をめぐる12の物語。今から見ると、電話網がインターネットである。1970年代に書かれたものなのだが、その電話網をめぐって出現する恐怖や猜疑心のあり様は現代社会にも当てはめて見ることが出来る部分が多い。

Listening in: Radio and American Imagination

Listening in: Radio and American Imagination

勉強のために。kindleだと辞書がすぐにひけて良いですな。

イザという時あわてない! 「冠婚葬祭」ワザあり事典 マナー・しきたりがしっかり身につく (PHP文庫)

イザという時あわてない! 「冠婚葬祭」ワザあり事典 マナー・しきたりがしっかり身につく (PHP文庫)

こういう冠婚葬祭のマナー本を常に持ち歩いてすぐに呼び出し可能なのは電子書籍の良い所なのではないだろうかとか思いつつ実はまだ買っていなくて、冒頭だけのサンプルを取り込んだ。

この他、無料で日本国憲法やらThrough the Looking Glass(Lewis Carroll)やらをとりました。