じょんしゅう日記

映画や本の感想が中心

ルー・リードの追悼に代えて――ヴェルヴェット・アンダーグラウンド/レボリューション

ルー・リードが亡くなった。僕はBerlinが好きでよく聴いていた。
ただ、ここでBerlinについて書くつもりもない。きっとソロでのアルバムについてとか、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのアルバムについては、色々な方が書いていくと思うし。
というわけで、これは、それほど注目されることもないであろう、ルー・リードヴェルヴェット・アンダーグラウンドビロード革命(ヴェルヴェット・レヴォリューション)について書いたものである。
こんなものが追悼となるのかは疑問である。というか、「こんな人にも関心ある私ってカッケーしょ?ってアピりたいだけ(byリカさん)」なのかもしれないが、何となく、こうしたくなったので載せるのである。


当初、60年代後半のニューヨークにおいて政治的な活動を行ったわけでもなく、またそのような文脈とは全く関係が無いかのように見えたヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードが、チェコスロヴァキアの民主化運動に(図らずも)関わったことがある。1968年の「プラハの春」や同年8月のソ連によるワルシャワ条約機構軍の軍事介入の前後から、共産党政権を崩壊させた無血革命である、1989年の「ビロード革命 Sametová Revoluce、Velvet Revolution」前後においてである。
チェコスロヴァキアの革命と音楽の関係においておそらく最も言及されるのは、1990年の「プラハの春音楽祭」で、亡命先のイギリスから42年ぶりに帰国したラファエル・クーベリック指揮によるベドルジハ・スメタナ作曲《わが祖国 Má Vlast》が演奏された出来事であろうか。あるいはビートルズだ。ビートルズが1968年に発売したヒット曲、〈ヘイ・ジュード Hey Jude〉は、発売と同年、歌手マルタ・クビショヴァによってチェコ語でカヴァーされている。その内容はオリジナルにおける家庭の事情を歌ったものから、辛い時代を生きる人々へと、よりメッセージ性の強いものに変えられた。彼女は1970年に音楽界から追放され、チェコ語版〈ヘイ・ジュード〉のレコードも回収されるが、この曲はビロード革命に到る約20年の間、抵抗の歌として密かに歌われつづけたという*1
一方、ヴェルヴェッツにおいては、革命前後にチェコで直接的に何かをしたわけでもなく、ビートルズのような目立ったエピソードも無い。とはいえ、劇作家であり、この民主化運動のリーダー的存在、そして革命後に大統領となったヴァーツラフ・ハヴェルクーベリックをイギリスから呼んだのも彼である)はヴェルヴェット・アンダーグラウンドについて次のように述べている。

私が言いたいのは、音楽、アンダーグラウンド音楽、とりわけヴェルヴェット・アンダーグラウンドというバンドのレコードが我々の国の発展において重要な役割を担ったということです。合衆国の多くの人々はこのことに気が付いていないと思います。*2

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは、アンダーグラウンド・シネマをはじめとするヒップでキャンプなニューヨークのアンダーグラウンドなコミュニティに属していた。この彼らの活動は、普通の意味では全く「政治的」ではなかった――ジョン・リーランドによればヒップの敵はアンガージュマンである*3。それどころか、極めて限られた私的なサロンのような場所で聴かれていたように思われる。少なくともマクロな意味での政治には関わろうとしていない。彼ら自身、ウォーホルのポップ・アート作品のように「デタッチメントを保ち、究極においてニヒリスティック」*4であったともいえる。ではいかにして、どのような意味で、この革命とこのバンドが関わることになったのか。

先ほど触れたビートルズチェコ語で歌った歌手クビショヴァの友人でもあったハヴェルは、1977年に憲章77の声明を発表し、その中心人物として告発された。そして同年に「国外における共和国の利益損傷謀議」として有罪判決を受けている。憲章77は人権擁護運動の中心をなす声明・署名として後のビロード革命の基礎となったものである。ハヴェルの語るところによると、この憲章77のきっかけとなった一つの大きな出来事は、プラハのロック・バンド、プラスティック・ピープル・オブ・ザ・ユニヴァース The Plastic Pleple of The Universeの逮捕であった*5。プラスティック・ピープル・オブ・ザ・ユニヴァース(以下PPU)は批評家のイヴァン・イロウスがバックについて活動していたが、このイロウスとハヴェルに人的繋がりがあったのである。そして、イロウスおよびPPUは1976年に反社会的な活動をしているとして逮捕された。

これはもはや二つの対立する政治グループ間の戦いなどとは全く関係なく、もっと悪いもの、全体主義による生活自体への、人間の自由と不可侵性への攻撃だったのです。攻撃の対象は(…)政治的過去を持つ人間でもない、それどころか、いまだかつて明確な政治的見解をもったこともない人間であり、ただ自分のやりかたで生きたい、好きな音楽を演奏し、歌いたいうたを歌い、自分自身に納得して生き、正直に自己表現している若い人たちだったのです*6

後に自伝の中で上のように語ったハヴェルは、この時のPPUの逮捕が不当であるとして活動を開始した。「なにかをしなければならないことは明らか」であったという*7。そして、このPPU事件をきっかけに、何か活動をしようと集まった人々によるグループこそが、後に憲章77の中心的な核となるグループなのであった*8

PPUは偶然にもルー・リードジョン・ケイルヴェルヴェット・アンダーグラウンド以前に組んでいたバンド名と同じプリミティヴズというプラハのサイケデリック・ロック・グループと融合して活動していた*9。PPUのバンド名はフランク・ザッパの楽曲のタイトル〈Plastic People〉からとられたものであるが*10ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの影響の下に誕生したバンドでもあり、たびたびヴェルヴェット・アンダーグラウンドのカヴァーを演奏していたという*11。PPUは、ノイジーなサウンドを奏で、ヴァイオリンなどの弦楽器の導入、尺の長い楽曲、暴力的で執拗な反復といったアヴァンギャルド・ロック的な特徴を持ち、またウィリアム・ブレイクカート・ヴォネガット・ジュニアなどの歌詞を用いるなど、文学との結びつきも強い。これらの点を見てもヴェルヴェット・アンダーグラウンドとの距離は近いということが伺えるであろう。ハヴェルもまた、このPPUの音楽的スタイルについて次のように語っている。

彼ら〔PPU〕の音楽のスタイルは、私が1968年にニューヨークからレコードを持ってきたヴェルヴェット・アンダーグラウンドから多大な影響を受けていました*12

発売当時、あまり売れなかったとして有名なヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコード*13が、チェコのバンド、PPUの手元にたどり着いたのはいかにしてだろうか、という点について正確なことはわからない。1968年5月から6月にかけて、ハヴェルは自身の戯曲『通達』の公演を行うために6週間ニューヨークに滞在した。この時ハヴェルは「白い文字の入った真っ黒い」ジャケットのレコードを持ち帰る*14。この説明によれば、それは同年1月に発売されていたヴェルヴェット・アンダーグラウンドのセカンド・アルバム《ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート》のことであるが、ハヴェルは後に、「1968年のニューヨークへの最初の旅で(…)彼らの最初のレコードを買った」*15という発言もしている。このようにハヴェルが入手したのがセカンド・アルバムであったのか、その前年1967年に発売されていたファースト・アルバム《ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ》であったのかははっきりしていないようだが*16、いずれにしてもハヴェルはヴェルヴェット・アンダーグラウンドの楽曲を聴き、「すぐに大のお気に入りとなった」と語っている*17。とはいえ、ここに引用した発言からはハヴェルによってヴェルヴェット・アンダーグラウンドがチェコにもたらされたかのような印象を受けるが、PPU結成メンバー、ベーシストのミラン・フラフサはハヴェルがレコードを持ち帰る前の1967年に、既にファースト・アルバムを聴いていたともいわれる*18。いずれにせよ、ニューヨークでもあまり売れていなかったようなヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードが発売からそう時間を置かずに、「チェコ・アンダーグラウンド」の場に出回り、聴かれていたらしい。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは、PPUに留まらず、チェコスロヴァキアのロック・シーン全体に影響を及ぼしたとも言われる*19

これらヴェルヴェット・アンダーグラウンドのアルバムの歌詞は、政治的に何かを表明しているわけではないし、そこから影響を受けたPPUにしても、いわゆる政治的なメッセージを表明する目的で結成されたわけではない。それは先に引用したハヴェルの言葉、「政治的過去を持つ人間でもない、それどころか、いまだかつて明確な政治的見解をもったこともない人間であり、ただ自分のやりかたで生きたい、好きな音楽を演奏し、歌いたいうたを歌い、自分自身に納得して生き、正直に自己表現している若い人たちだった」というものを見てもわかるだろう。
しかしPPUの音楽が政治的ではなかったとしても、その音楽を演奏する機会を奪われたことが、民主化運動の一つのきっかけとなり、力となった。トム・ストッパードの戯曲に、1968年のプラハの春の頃からビロード革命後までのチェコスロヴァキアのロックと政治の関係を描いた『ロックンロール』という作品がある*20。その序文でストッパードが言うには、PPUは共産主義を倒すことに興味は無かったし、そして「もちろん、共産主義を倒しはしなかった」。しかし、「絶対に妥協する気のなかった」このバンドは、その姿勢によって、活動空間の確保が困難になっていた*21。そのせいで彼らはやがて、はからずも政治的動乱に巻き込まれていくことになったのは既に見たとおりである。
そのPPUの一つのモデルとして、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの音楽――「絶対に妥協する気のなかった」もう一つの音楽――はニューヨークとは少し異なった意味で聴かれていったように思う。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドはその現れにおいて、どちらかといえば私的なバンドであったといえるのだが、それが1960年代のニューヨーク・アンダーグラウンドという時代・土地・コミュニティのコンテクストから切り離され、東欧の専制支配下の音楽家と出会ったとき、そのレコードは遠い異国における一つの理想的な表現活動の結晶として新たな社会的意味を持ったといえる。「絶対的な表現の自由―好きな事を好きなように書ける自由」の音楽といったようなものとしてである*22。活動当初ニューヨークにおいてはさほど支持を得なかったヴェルヴェット・アンダーグラウンドの混沌としたレコードが、チェコスロヴァキアのロック・バンドにとっては専制政治下における一種の(おそらく幻想を伴った)理想として働いた。ある種のロックが楽天的に政治を動かせると信じていたのと対照的に、きわめて限られた私的サロンのような場で聴かれていたと思われる初期ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのレコードが、一つの自由な表現形態として文脈を変えて民主化のシンボルの一つとして意味を持ち、それがやがて民主化へと繋がっていった、と言えるのかもしれない。


ちなみに、ビロード革命後の1990年にリードはチェコのバンド、プルノックの生演奏を聴いているが、その感想を次のように述べている。

突然、その音楽に聴き覚えがあることに気が付いた。彼らはヴェルヴェット・アンダーグラウンドの歌を演奏していた―私の歌の、美しくて心を打つ文句なしの演奏だった。私は信じられなかった。それは一夜漬けでどうにかなるような代物ではなかった。*23

このプルノックというバンドはPPUのベーシスト、フラフサが立ち上げたバンドであった。リードはこの演奏を聴いて自らも共に演奏することを願い、共演する。プルノックの演奏は「まるでVUの心、魂を、優れたアイディアを吸収し、そして骨の髄までも吸い尽くしているかのよう」であったし、モー・タッカーとスターリング・モリソンとケイルが「後ろにいるかのよう」であったという*24。このリードの絶賛からしても、PPU周辺のアンダーグラウンド・ロック・シーンにおけるヴェルヴェット・アンダーグラウンドの浸透具合が垣間見えるだろう。プルノックのアルバム《シティ・オブ・ヒステリア City Of Hysteria》では〈オール・トゥモロウズ・パーティーズ〉の忠実なカヴァーを聴くことが出来る。

参考文献
ハヴェル,ヴァーツラフ 1991 『ハヴェル自伝: 抵抗の半生』 佐々木和子訳 東京: 岩波書店
Kugelberg, Johan, ed. 2009. The Velvet Underground: New York art. New York: Rizzoli.
Leland, John. 2004. Hip: The history. New York: HarperCollins.〔篠儀直子、松井領名訳 『ヒップ: アメリカにおけるかっこよさの系譜学』 2010 東京: ブルース・インターアクションズ
Mitchell, Tony. 1992. Mixing pop and politics: Rock music in Czechoslovakia before and after the Velvet Revolution. Popular Music 11, 2: 187-203
Reed, Lou. 1991. Between thought and expression. New York: Hyperion Books. 〔梅沢葉子訳 『ルー・リード詩集: ニューヨーク・ストーリー』 1992 東京: 河出書房新社
Riedel, Jaroslav. 2004. Liner notes to The Plastic People Of The Universe Man With No Years. London: Kissing Spell.
Sontag, Susan. 2001. Against interpretation and other essays. New York: Picador. Original edition, New York: Farrar Straus and Giroux, 1966.〔高橋康也、喜志哲雄ほか訳 『反解釈』 1996 東京: 筑摩書房〕
ストッパード, トム 2010 『トム・ストッパードII: ロックンロール』 小田島恒志訳 東京: 早川書房
Unterberger, Richie. 2009. White Light/White Heat: The Velvet Underground day by day. London: Jawbone Press.
松山壽一 2010 『音楽と政治: プラハ東独紀行とオペラ談義』 東京: 北樹出版

*1:松山 2010: 18-23

*2:Reed 1991: 151-152

*3:Leland 2004: 9

*4:Sontag 2001: 292

*5:ハヴェル 1991: 191-199、Reed 1991: 151

*6:ハヴェル 1991: 195

*7:ハヴェル 1991: 193-194

*8:ハヴェル 1991: 199

*9:Mitchell 1992: 196

*10:Mitchell 1992: 189

*11:Riedel 2004

*12:Reed 1991: 150

*13:ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコ》は171位、《ホワイト・ライト/ホワイト・ヒート》は199位が最高順位であった(Unterberger 2009: 136, 179)。

*14:Reed 1991: 154

*15:Kugelberg 2009: 7

*16:Unterberger 2009: 185

*17:Kugelberg 2009: 7

*18:Unterberger 2009: 175

*19:Mitchell 1992: 190

*20:戯曲『ロックンロール』は、2006年にロンドンのロイヤル・コート・シアターで初演され、2010年には東京でも上演された。日本公演は栗山民也演出、市村正親主演。

*21:ストッパード 2010: 27-28

*22:Reed 1991: 161

*23:Reed 1991: 159-160

*24:Reed 1991: 160