じょんしゅう日記

映画や本の感想が中心

志ん生耳

来年の大河ドラマの関係だろうが、最近古今亭志ん生の名前をニュースの見出しなどで見かける。

これから大河ドラマを見たりして、志ん生を聴いてみようという人がいるかもしれない。しかし志ん生は、少なくとも初めて聴く場合は、どの録音を聴いても楽しめるような落語家ではなく、録音に(主に時期に)かなり左右されるように思う。

僕は志ん生をリアルタイムで知らず(僕が生まれたのは80年代後半なのでとうに幽明境を異にしていた)、しかも最初の志ん生体験に「失敗」した。しかし今は志ん生の落語音源を聴くのが好きである。別に志ん生について偉そうにあれこれ言える人間ではないのだが、僕の体験を紹介することで、これから志ん生を聴く人たちの参考になればと思っている。

志ん生の落語は、録音や速記、NHKなどにある僅かな映像を介して知るほかないが、なんといっても録音がメインになるだろう。志ん生は、本格的に録音メディアと共に生きることになった初期の世代、録音ネイティブ初期世代の落語家でもある。それ以前の落語家に比べると録音は比較的豊富だし、簡単に手に入る。

しかし選択肢が豊富であればあるほど、どれから聴くと良いのか、よくわからないものである。僕も、志ん生を初めて聴いたときは適当に選んでしまったのだったが、それを再生したときのことは忘れられない。

僕はそのころ、夜寝るときに落語の録音を聴きながら眠りにつくのが日課であり、特に志ん朝真田小僧と佃祭や、僕の一番好きな落語家である十代目金原亭馬生の二番煎じや明烏などを繰り返し聞いていた。

で、ある時、彼らの親父さんの志ん生も聴いてみようかと思い、適当にCDを借りてきて再生し、横になった。初めての志ん生。しかし、しかしである…聞き取れない…。何を言っているのかを聞き取るのに神経を使ってしまい、面白いも面白くないも無かった。これが志ん朝の親父さんなのか?と思い、ひどくがっかりしたのだった。

今から思えば、それは志ん生が病気から復活して以降の録音だったのだが(志ん生は1961年の暮れに病気で倒れた。その後復帰したが後遺症で発音がやや不明瞭になってしまった)、しかしその時はそうした伝記的なエピソードのこともあまりよくわかっておらず、単にもう今後は聴かないかもなと思ったのだった。

実際、しばらく志ん生は聴かずにいたが、2年ほどして、図書館でなんとなく落語CDコーナーへ行き、無料だし良いかなと思って志ん生のCDを借りた。本当になんとなくである。ビクターから発売されている、黒地に金文字のジャケットのもので、火焔太鼓、品川心中、鮑のしが収録されていた。

帰って聴いてみたら、むちゃくちゃ面白かった。火焔太鼓の道具屋のちょっととぼけた店主の姿、鮑のしの甚兵衛さんがよい天気の中で大家さんの家を訪ねている様子、こうした「落語の国」の情景が目に浮かぶようで、笑いを堪えられなくなると同時に感動的でもあった。現実の世界では彼らには決して出会えないと思うと、寂しい気持ちすらした。

そこからは志ん生の録音を聴きまくったし関連する本も読み漁った。SP盤も探して聴き、NHKに行って映像も見た。マクラなどで触れる洒落はちょっと時代を感じさせるものの、志ん生の落語は、聴くたびに摩訶不思議な可笑しい世界を見せてくれる。『なめくじ艦隊』などを読んでとんでもない人だなと思い呆れたりもしたが、古今亭圓菊の『背中の志ん生』を読んで素敵な人だなとも思った。

そうこうしているうち、病後の志ん生の録音にも触れることになる。すると、確かに聞き取りにくいのだが、今度は結構わかる。しかも録音によっては、むしろ味があってよいなとも思った(マクラでキューバの「カストラ」(カストロ)の話をしている疝気の虫など)。

いつのまにか病後であろうと聴き取れる「志ん生耳」になっていたのだ。それは志ん生の本を読んだりして志ん生についての(と同時に落語についての)知識を得たこともあるし、志ん生独特の話し方に耳が慣れてきたこともあるだろう。

志ん生の病後の録音は、最初に聴くのはおすすめできない。耳も慣れていないし、聴きにくさを補完する文脈を欠いていると、多分何を言っているかわからないからだ。しかし、それで志ん生をつまらないと思ってしまうのはとてももったいないと僕は思う。 

志ん生の噺の多くのは今聴いてもかなり可笑しい。特別な知識もほとんど要らない(細かく見れば色々背景知識は要るだろうがそれは別に後でも良いと思う)。最初に聴きたいのはやはり1961年以前の録音。シリーズで言えば、ポニーキャニオンの名演大全集シリーズが、聴きやすいものが多い。同じくポニーの「もう一度聴きたい 古今亭志ん生十八番集」というボックスは、病前中心に収録されていて。演目で言えば黄金餅粗忽長屋、一眼国、妾馬あたりが良いと思っている。噺の内容的にも落語らしいバカバカしさや価値の転倒が楽しめるからだ。

というわけで、最初に触れる志ん生の録音についてはやや気を使った方が良いと感じている。面倒といえば面倒だが、CDなら大体パッケージに書いてあるし、ネット配信などでよくわからん場合、例えば以下のようなサイトもある。

http://www.asahi-net.or.jp/~ee4y-nsn/rakugodata/s002_01_shinsho.htm

志ん生の録音が一覧にまとめてあり録音年もわかるページだ。

あるいは保田武宏『志ん生全席落語事典』という大変便利な本もある。CD、DVD化されている音源を、あらすじ、解説付きでまとめている。おすすめ音源も書かれているが、確かに面白くて聴きやすいチョイスが多く、役立つ。

これらで年数を確認して1961年(昭和36年)以前の録音から入ることを強くおすすめしたい。そのうち病後の録音にも独特の味わい深さを感じるようになると思う。

 

という、僕なりの志ん生推しのブログでした。

 

 

五代目 古今亭志ん生(1)火焔太鼓(1)/品川心中/鮑のし

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古今亭志ん生 名演大全集 1 火焔太鼓/黄金餅/後生うなぎ/どどいつ、小唄

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志ん生全席落語事典―CD&DVD691

志ん生全席落語事典―CD&DVD691

 

読み物として面白い落語本

文庫化されたのを機に、三遊亭円丈『師匠、御乱心!』を読んだ。

1970年代末に起きた落語協会分裂騒動。後の時代に生まれた者からするといまいちよくわからない騒動なのだが、この本は、現在の落語(界)のあり方にも影響を与えているその出来事の内実を、小説のかたちをとって描いている。

あくまでも一落語家の立場から描かれた物語であり、この騒動に対する別の見方や描き方はあるだろう。だがそれは当然のこと。むしろ、あくまでも一落語家の視点を貫いているからこその独特の説得力がある。圓生の弟子として、騒動によって人生を大きく左右されたと言える若き落語家が、何としてもこの騒動の顛末を伝えようとした情熱(情念?)のようなものを感じることができる本であり、しかも文章が冴えていて読み物として面白い本だった。

 

師匠、御乱心! (小学館文庫)

師匠、御乱心! (小学館文庫)

 

 

安楽庵策伝『醒睡笑』の笑いと落語の笑い

落語の祖とも言われる僧侶・安楽庵策伝がまとめた『醒睡笑』を初めて読んだとき、これは普段寄席や録音で聴いて面白いなと思っている落語と、似ているけれども何かが少し違うとも感じた。

確かに「平林」の原話など、現代でも楽しまれる落語の原初的な姿がある。その意味では、現代の落語に通じる面白さがある。

ところが『醒睡笑』で笑われるのは身分の低い者、間の抜けた者である。僕がこの本を読んで、落語とは何かが違うと感じた点はここだ。『醒睡笑』は、安楽庵策伝が、京都所司代・板倉重宗に献上した本である。いわば特権的な地位にいた人物を笑わせるために作られている。上の者が下の者を笑うという構図になるのも不思議ではない。

もちろん現代の落語でも間の抜けた者、身分の低い者が登場し、滑稽な振る舞いをするが、むしろ落語の場合、そうした者たちの振る舞いが、秩序に亀裂を入れてしまうような瞬間が楽しい。

秩序から外れていることの愚かさを笑うのか、それとも秩序にちょっと亀裂を入れる快感を楽しむのか。『醒睡笑』の笑いは前者の性格を持っている。他方、落語は後者の性格が強いだろう。似たような内容の話でも、どこに向けて話されるのか、どんな場で話されるのかによって全く異なる性格を持つものなのだな、と思う。