じょんしゅう日記

映画や本の感想が中心

〔試訳〕モンゴルのホーミーその他の音楽について(その2)

この文章について
ホーミーを中心としたモンゴル音楽のアルバム“Jargalant Altai: Xöömii And Other Vocal And Instrumental Music From Mongolia.” (Pan 2050), 1996のライナーノーツの試訳【第2弾】です(前回からだいぶ時間が経ってしまいましたが…。)数回に分けて掲載する予定です。

第1弾はこちら↓

・このアルバムはオランダのPAN Recordsから発売されています。発売元のレーベルから訳文掲載の許可を得ています。快諾してくれたPAN RecordsのPresident、Bernard Kleikampさんに感謝します。
・1996年に出たアルバムのライナーノーツですので、現在から見ると古い記述、正確でない記述もあると思いますが、ホーミーあるいはモンゴル音楽の概要を知る一つのきっかけとしては良いかと思います。
・ライナーノーツには図版や写真も載っていますが、ここでは省いています。
・間違いや気になる点などあったらご指摘いただけると助かります。
・ちなみに肝心のアルバムは簡単に手に入るので、興味があれば聴いてみてください。「鉄道唱歌」とほぼ同じメロディーとして知られる'Humankind'のホーミーバージョンと口琴バージョンも入っています。

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(承前)

ホーミーの歴史と起源

 モンゴルについての主要な史料はホーミーの歴史に関してほとんど何も教えてくれない。一般に推測されているのは、この歌唱形式は、地理的には現在西モンゴルの各県(アイマク)とロシアのゴルノアルタイおよびトゥヴァの領土となっているアルタイ山脈地域のどこかで生まれたということだ。西はウラル山脈まで達する倍音唱法の広がりは、通例、かつてのモンゴルの侵略の影響と関連付けられる。モンゴルの人々は彼らのホーミーの伝統の長さを誇りに思っている。ツェレンダヴァは、チャンドマン郡は1500年前に遡るホーミーの歴史を持っていると主張した。だが、いつまでその伝統が遡れるのかを正確に言える者はいない。

 ツェレンダヴァの言葉によると、ホーミーは「世界の美しさへの驚嘆を表す方法として生まれた」。トゥヴァやバシコルトスタンと同じく、モンゴルにおいて、倍音唱法は牧人によって、素晴らしく壮麗な環境への反応として歌われた。倍音唱法は特定の地理的な特徴――山、谷、湖、川や小川――と結びつけられるようになった。それらの特徴は、歌手にインスピレーションと、理想の音響的な舞台を与え、相当遠くまで声を届けることを可能にした。近年のモンゴルにおけるホーミー・リバイバルのシーンであるチャンドマン郡は、ある風景的特徴と倍音唱法の実践との結びつきの、完璧な事例を与えてくれる。

 チャンドマンの村は、ジャルガラント山(本CDのタイトルはここからとっている)の西の傾斜の下に位置している。ジャルガラントは、アルタイ山脈の、メインの山塊とは区別される、支脈を形成する2つの高山のうちの1つである。この山はチャンドマン郡の西の境界にもなっている。2つの大きな、そして2つの小さな湖が北と西の境界となり、中央部分はまあまあ乾燥しているステップのエリアになっている。

 これらの地理的な特徴は、チャンドマンの人々が彼らの郡においてホーミーがいかに生まれたのかを語る物語に深く関わっている。彼らは、ジャルガラント山の周りを巡り、ステップを駆け抜け、湖面を吹き抜ける風が生み出す特別な音について語る。山の上部斜面の大気の希薄さは、山の斜面を流れる小川が作る音(ノイズ)を含め、聞こえる音の多くが、非常に澄んだ美しい自然のものであることを意味する。ホーミーチ(ホーミー奏者)は、彼らの愛するチャンドマン地域で耳にする、無数の自然の音からのインスピレーションを描く。

 ホーミーは、山、川、湖との関連を介して超自然的な概念とも間接的に結びついているが、過去のシャーマン的な実践との密接な結びつきを示唆する証拠は不十分である。モンゴルの人々は、山々を、守護の特別な力を授けてくれる聖なる場所としてみなしている。チャンドマン郡の人々はジャルガラント山をそのように語っている。叙事詩を語る前に、奉納として、アルタイ山脈に歌った賛歌の例もある。モンゴルの民話と神話において、川もまた特別な位置を占める。西モンゴルの人々の多くは、とても美しい音を作り出すと言われホーミー誕生の地として語られる有名な川、エービ川について物語る。やはり、エービ川の話には超自然的な要素が含まれており、チャンドマン郡で考えられているように、この川は人間がより美しく、動物たちがより大きく強くなる場所とみなされている。この川は実際に存在するかどうかもわからない。私はエービ川を見たことがあるという人を知らない。その正確な場所については、ばらばらの意見が存在している。

 

チャンドマン郡におけるホーミーの近代的リバイバル

 革命前のモンゴルにおいてホーミーは、動物たちの番をする羊飼いたちによって歌われた。さらに、それは家族や他の羊飼い、そしておそらく動物たちへの信号の手段として使われてきた可能性がある。ホーミーはまたゲルの中や、特定の祭において歌われた。ホーミー歌唱の実践がラマの間で好ましくないと思われていたにも関わらずである(ラマ教は長いことモンゴルの中心的な宗教である)。

 20世紀のはじめにホーミーが音楽芸術の形式に変化したことは、地元の劇場を開き、地域の音楽やダンスのアンサンブルを発展させるという政策の導入と関係がある。このリバイバルには、ほとんど専ら、チャンドマン郡出身の一連の有名な歌手たちが関わっている。

 最初は、チョローンである(ツェレンダヴァは、私たちとの録音セッション中、彼の名前をマハンチョローンと言っていたが、他の人はトゴン・チョローンと呼ぶ)。チョローンが、チャンドマン郡の、そしてモンゴル全体に広がっていくホーミー・リバイバルを引き起こした。彼の複数の弟子(ツェレンダヴァもその1人)が、ホーミーをプロないしはセミプロとして演奏するようになった。残念ながら、彼自身の歌は録音されなかったようである〔訳注:Matthew Hoch(ed.) , So You Want to Sing World Music: A Guide for Performers, p.383によると、チョローンは1890年頃に生まれ1930年頃まで活躍したそうだ〕

 チョローンに続くのは、1950年代と1960年代のチメドルジとスンドゥイである。前者はモンゴル・ラジオによって初めて録音されたホーミー奏者である。スンドゥイは最初ホブド市の劇場で働いていたが、後にウランバータルの国立民俗音楽舞踏アンサンブルに加わった。彼の特徴的な演奏様式は、ツェレンダヴァやガンボルドのような若い歌手に大きな影響を与えた。スンドゥイは既に引退しているが、おそらく今でも最も有名なモンゴルのホーミー奏者である。

 1970年代末と1980年代のはじめに、並外れた才能を持つ3人の歌手が登場した。センゲドルジ、ツェレンダヴァ、そしてガンボルドは、モンゴル内部でのホーミー・リバイバルを継続させているだけでなく、広く海外ツアーをして、その特筆すべきボーカル・ミュージックを世界中のオーディエンスに紹介している。

 センゲドルジは長年ホブド劇場におり、一方でガンボルドはウランバータルでプロとして演奏している。多くの評者たちが、ガンボルドが彼の世代の最高のホーミー奏者だと思っているが、彼を聴いたことのある人は比較的少ない。対照的に、ツェレンダヴァは多くのラジオやテレビ放送のおかげで、かなりの人に知られている。しかし、彼は今でも故郷のチャンドマン郡でトラックドライバーとして働いている身である。

 より若い歌手たちも登場し始めている。その中で、ツォグトバータルは、ホブド市出身のウリヤンハイ族であり、センゲドルジに師事し、ウランバータルのアンサンブルで演奏している。多くの子供たちとティーンエイジャーたちがウランバータルで、ガンボルドおよびやはりプロのホーミー奏者である弟のゲレルツォグトからの教えを受けている。こうして徐々にチャンドマン郡から離れていく動きが、長く続く傾向になるのかどうかは、まだわからない。

(続く…)

 

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【訳者補足】

スンドゥイがホーミーを演奏する動画。


Mongol Khuumii by Sundui

 

こちらにはツェレンダヴァとセンゲドルジが登場している。最初にソロでホーミーをしているのがツェレンダヴァ(右から2番目)。4番目にソロでホーミーをしているのがセンゲドルジ(右から3番目)。ちなみに1番右がガンツォリグ、1番左がオドスレン。


4 great masters of throat singing in Mongolia

〔試訳〕モンゴルのホーミーその他の音楽について(その1)

※noteのアカウントを作って一度そちらに以下の文章を載せましたが、やっぱこっちに載せます。noteのはそのうち消します。

 

この文章について
ホーミーを中心としたモンゴル音楽のアルバム“Jargalant Altai: Xöömii And Other Vocal And Instrumental Music From Mongolia.” (Pan 2050), 1996のライナーノーツの試訳【第1弾】です(2、3回に分けて掲載する予定です)。このアルバムはオランダのPAN Recordsから発売されています。

【補足】
・発売元のレーベルから訳文掲載の許可を得ています。快諾してくれたPAN RecordsのPresident、Bernard Kleikampさんに感謝します。
・1996年に出たアルバムのライナーノーツですので、現在から見ると古い記述、正確でない記述もあると思いますが、ホーミーあるいはモンゴル音楽の概要を知る一つのきっかけとしては良いかと思います。
・ライナーノーツには図版や写真も載っていますが、ここでは省いています。
・間違いや気になる点などあったらご指摘いただけると助かります。
・ちなみに肝心のアルバムは簡単に手に入るので、興味があれば聴いてみてください。「鉄道唱歌」とほぼ同じメロディーとして知られる'Humankind'のホーミーバージョンと口琴バージョンも入っています。


ジャルガラント・アルタイ:モンゴルのホーミー、その他のボーカル&楽器の音楽
クリス・ジョンストン、1996年

このCDは「ホーミーxöömii」あるいは西洋では倍音唱法として知られる卓越したボーカルテクニックを取り上げている。この唱法は、同時に2つの別個の音を生み出すという特徴がある。つまり、低い基音となるドローンと、フルートのようなホイッスル音であり、後者はメロディを奏でるのに使われる。腕の良い歌手によって生み出されるこのサウンドは、実に驚くべきものであり、初めて聴いた人の多くは、2人のボーカリストの声を聴いているものだと思い込んでしまう。
 本コレクションは、ここ35年間の、多くの第一級のホーミーチxöömiich(ホーミー・シンガー)による演奏を収録している。音楽芸術形式としての倍音唱法の近年の発展はもちろんのこと、地域的な差異にも光を当てるために、幅広く様々な内容を収めている。それ以外には、別の関連するボーカル曲および器楽曲の事例を取り上げている。コレクションの前半は、1994年秋のモンゴルへのフィールドワークの際におこなったフィールドレコーディングに基づいている。後半はモンゴル・ラジオのアーカイヴの録音を収めている。本アルバムJargalant Altaiは、PANレーベルから発売済であるUZLYAU. Guttural Singing of the peoples of the Sayan, Altai and Ural Mountains(PAN 2032CD)の姉妹編とみなすことができる。

 

モンゴル国
中国とロシア連邦に挟まれたモンゴルは、中央アジアの北に位置する大きな内陸の国である。面積はおよそ156万5000平方キロメートルで、だいたいフランスの3倍にあたる。広大で開放的な景色を持つこの国は、国土の中央を横切る広々とした緑の帯の、終わりの無いようにも思える大草原地帯によって象徴される。乾燥し、岩の多いゴビ砂漠の大地が南部を占めている一方で、モンゴルの森の大部分が、いくつかの非常に大切な湖や川とともに、北部に位置している。2つの重要な山脈がある。つまり、標高4,000メートル以上にも及ぶ西部のアルタイ山脈と、中央部に向かって延びるハンガイ山脈である。
 モンゴルは寒く、乾燥した大陸性気候で、それは通常マイナス40℃からプラス40℃の幅を持つ極端な気温をもたらす。澄んだ青い空のときが多い――1年間のうち250日以上が、晴れた陽当たりの良い日である。
 その大きさにも関わらず、人口はわずか225万人〔訳注:現在は約323万人※2018年のデータ〕であり、地球上で最も人口がまばらな国の一つとなっている。住民の半数近くが今日では様々な町や市に住んでいるが、大多数の地方住民が伝統的な、牧歌的ノマド生活様式をまだ守っている。こうした人々の生活は、過去数十年間、あまり変わっていない。彼らは白い、フェルトで覆われたテント(ゲル)に住み続けているし、羊、牛、馬、山羊、ヤクそしてラクダを生活のために飼っている。モンゴルのユニークな伝統音楽は実のところ牧者の音楽であり、しばしば荘厳でもあり、しかし過酷で恐ろしくもある故国の大地との強い絆を反映している。
 モンゴルは幾分波乱に富んだ歴史を歩んできた。モンゴル帝国は中世に、アジアの大部分と東ヨーロッパを制圧したが、しかしその驚くべき軍隊の成功は、維持することができなかった。モンゴルは結局満州支配下に置かれた。1921年の革命のすぐ後にモンゴル人民共和国が世界で2番目の共産主義国家となり、ソビエト連邦の軍事的、経済的な援助に大きく依存した。モンゴル国は今、民主主義国家としての道を歩み始めたところだ。
 この国には20以上の異なる民族集団(あるいはヤスタン)が住んでいる。最も多いのはハルハで、全人口の75%以上を形成している。このCDの録音の多くもハルハの歌手や音楽家のものである。

 

倍音唱法
I.モンゴル以外

倍音唱法が見られるのは、主に南シベリアと中央アジアのいくつかの地域に限定されている。それは、北西モンゴルとの境界に位置する、ロシアの自治共和国トゥヴァの人々の間で最も普及している。トゥヴァの人々はその倍音唱法を「ホーメイkhöömei」と呼ぶ。何百人もの熟練したホーメイ演奏家がいるようで、首都クズルでは定期的にコンペティションが開かれている。トゥヴァの人々は、ホーメイの、いくつかの異なるスタイルとサブスタイルを発展させてきた。これらは多数の様々な専門家によって、広く調査され、録音されてきた。
 ハカシアとゴルノ・アルタイスクの隣接地域の人々もまた倍音唱法の伝統を持っている。しかし、少なくともゴルノ・アルタイスクにおいては、プロパーの二声部唱法歌手は、生きた伝統としては途絶えてしまったと思われる。
 倍音唱法はロシアの自治地域でウラル南部に位置するバシコルトスタンでもまだ演奏されており、当地では「ウズリアウ」として知られている。残念ながら、この伝統も危機的である。1992年にヴャチェスラフ・シュロフとファリト・カマエフによって行われた探検調査により、このスタイルの唱法をマスターしていたのは2名の歌手だけということが明らかになったのだ。二声部歌唱はヴォルガ下流域のカルムイクの人々によっても歌われるが、やはりこの実践も非常に少ない演奏家に限定されているだろう。
 中央アジアを離れると、南アフリカのコーサの人々が、おそらく唯一の注目すべき倍音唱法の伝統を持っている。 それはumngqokoloとして知られている。

 

II.モンゴル
モンゴルでのホーミー唱法の実践は、最近まで西部の疎らな地域、現代の区分で言うとホブド、バヤン・ウルギー、オブスの各アイマク(県)の境界内に限られていた。ホーミーは伝統的に、それぞれの県内の特定のソム(郡)と関連を有してきた。
 モンゴルのホーミーの、近代におけるリバイバルの中心地は、もっぱら、西ハルハ・モンゴルの集団が住むホブド県のチャンドマン郡周辺である。チャンドマンの歌手たちは、コンサート演奏やテレビ、ラジオ出演などを通して、国内および海外のオーディエンスの双方にホーミーを紹介してきた。結果として、チャンドマン郡はホーミーの「本場」としての名声を獲得した。
 対照的に、バヤン・ウルギー県とオブス県における倍音唱法の伝統は、ここ数十年で縮小してきている。バヤン・ウルギーでは、以前は「ホーミー」はツェンゲル郡に住むトゥヴァ人によって演奏されていた。しかしその数は、同県の大半を占めるムスリム・カザフの増加にともなって、著しく減ってきている。
 ホーミーは北側でトゥヴァと接しているオブス県のバヤド族でも広く演奏されていた。バヤドの歌手たちは、トゥヴァの人々によって演奏される倍音唱法を聞いて影響を受けていたようである。1921年以前には、境界を越えた多くの接触があったが、その後のオブス県におけるホーミーの衰退は、続く数十年の「鎖国」政策に原因があると考えられる。今日、オブスでの倍音唱法は、少数の孤立した個人に限定されていると思われる。

 

ホーミーの技術とスタイル
「ホーミーxöömii」(頭文字のxはhとして発音する)は、咽頭を意味するモンゴル語であり、西洋で倍音唱法として知られる歌唱スタイルを指す名称でもある。この歌唱形式の独自性は、1人の演奏家が、固定された、基音となるドローンを維持する一方で、同時に笛のようなメロディを生み出すことが可能である、ということだ。そのメロディは選択され、強調されたさまざまな倍音(基音の周波数の整数倍)によって作られる。倍音は普段は彩りとしてのみ聞かれ、それ自体はっきりとした音としては聞かれない。ところが倍音唱法において、倍音は基音よりも大きな音となる。歌い手は咽頭の動き、口腔と唇の形状、舌の位置を正確に制御しながら、強い腹圧で肺の空気を押し出すことでこれを実現させる。口は、モンゴル語の母音を発音するような形となる。前舌母音と後舌母音は、それぞれ高い音と低い音を生み出す。全体の運動は演奏家に卓越したブレス・コントロールを要求する。
 モンゴルの人々は最近になって、異なるスタイルのホーミーを分類し始めている。下記のリストは、チャンドマン郡の有名なホーミーチ、ツェレンダヴァによって示された5つの主要なタイプである。

  • a)唇のホーミー
  • b)口蓋のホーミー
  • c)声門のホーミー
  • d)胸腔のホーミー
  • e)鼻のホーミー

 他の有名なホーミー・シンガーたちはホーミーのスタイルをやや異なる仕方で分類する。上記の分類は充分ガイドとしての役目を果たすけれども。それぞれのスタイルは異なる共鳴器を使うため、特有の音質を生み出す。個々の歌手はこれらのスタイルの1つあるいは2つの演奏に特化していることが多いが、個人的な嗜好か、あらゆるタイプのホーミーを演奏するのが無理であるためかのどちらかである。
 しかし上記の分類は、とりわけ西ハルハの歌手によるホーミー演奏に当てはまるということを強調しておくのは重要である。他の民族集団(ヤスタン)は、独自の用語と、より重要なことに、独自のホーミーのスタイルを持っており、それは西ハルハのものとは大きく異なる。また、個々の歌手の多く(ハルハの演奏家も含む)は、一般的な分類からはみ出すような個人個人のスタイルを発展させてもいる。
 メロディックな笛の音なしで基音が歌われる、ハルヒラxarxiraaという歌唱スタイルもまた、分類が難しい。ホーミーの別の形式とみなす評者もいる。全く別のタイプの歌唱だと見る者もいる。ハルヒラは、喉の筋肉が緩み、緊張していないという点で、喉歌の他のスタイルとは違っている。そのことは、歌手が、ただメロディを生み出すのではなく、詞を伴った歌を歌うことをも可能にしている。この点においてハルヒラは、やはり喉声の技術である、西モンゴルの叙事詩人が使うハイラハxailaxという歌唱スタイルと似ている。

 

習得の方法
ツェレンダヴァ曰く、ホーミーは「スポーツと同じくらいに、強靭さと忍耐力と鍛錬(つまりトレーニング)が求められる卓越した技芸だ」。トレーニングと学習の期間は、通常子供時代から成人早期にかけてである。学習者は徐々に歌唱技術を仕上げていき、よりハイレベルな演奏に必要な力を獲得していく。生徒は、かつては主に他の歌手を聴き、そのサウンドを真似することで学んだ。しかし現在は厳密な授業と指導を通じて伝統を伝えるための、よりしっかりとした取り組みが存在する。
 歌手の多くが、ホーミーを野外で練習することの大切さを強調する。ツェレンダヴァはこのことについて、以下のように述べた。「ホーミーの練習の独特な点は、生徒たちは最初から外に出て、新鮮な空気の中で、自然と雄大な山に囲まれて練習する必要があるということだ。ホーミーの音は風の音と混じり合う時に、より美しくなる。これでコンディションが整う。さまざまな自然環境(谷、山、草原)、天候(風の強い日、穏やかな日)の中で歌うことは、生徒たちが、ホーミーに関する特有の困難を見分けることを助けるだろう。彼らは、プロの歌手になるために必要な特定の音と技術を浮き彫りにすることができるだろう。」
 ホーミーは、歌手に強いストレスと緊張感をもたらす非常に難しい歌唱のスタイルである。ほとんどの歌手が、一度は身体的な副作用を経験する。若い歌手は自分に合ったスタイルを演奏することを奨励され、より年齢が上の人々は倍音唱法をやめることが奨励される。女性のホーミーチに対するタブーは緩くなったが、女性がホーミーを演じる年齢を規定する厳格なルールは残存している。はたして、女性の倍音唱法歌手は非常に少ない。

 

(続く/To be continued..).

志ん生耳

来年の大河ドラマの関係だろうが、最近古今亭志ん生の名前をニュースの見出しなどで見かける。

これから大河ドラマを見たりして、志ん生を聴いてみようという人がいるかもしれない。しかし志ん生は、少なくとも初めて聴く場合は、どの録音を聴いても楽しめるような落語家ではなく、録音に(主に時期に)かなり左右されるように思う。

僕は志ん生をリアルタイムで知らず(僕が生まれたのは80年代後半なのでとうに幽明境を異にしていた)、しかも最初の志ん生体験に「失敗」した。しかし今は志ん生の落語音源を聴くのが好きである。別に志ん生について偉そうにあれこれ言える人間ではないのだが、僕の体験を紹介することで、これから志ん生を聴く人たちの参考になればと思っている。

志ん生の落語は、録音や速記、NHKなどにある僅かな映像を介して知るほかないが、なんといっても録音がメインになるだろう。志ん生は、本格的に録音メディアと共に生きることになった初期の世代、録音ネイティブ初期世代の落語家でもある。それ以前の落語家に比べると録音は比較的豊富だし、簡単に手に入る。

しかし選択肢が豊富であればあるほど、どれから聴くと良いのか、よくわからないものである。僕も、志ん生を初めて聴いたときは適当に選んでしまったのだったが、それを再生したときのことは忘れられない。

僕はそのころ、夜寝るときに落語の録音を聴きながら眠りにつくのが日課であり、特に志ん朝真田小僧と佃祭や、僕の一番好きな落語家である十代目金原亭馬生の二番煎じや明烏などを繰り返し聞いていた。

で、ある時、彼らの親父さんの志ん生も聴いてみようかと思い、適当にCDを借りてきて再生し、横になった。初めての志ん生。しかし、しかしである…聞き取れない…。何を言っているのかを聞き取るのに神経を使ってしまい、面白いも面白くないも無かった。これが志ん朝の親父さんなのか?と思い、ひどくがっかりしたのだった。

今から思えば、それは志ん生が病気から復活して以降の録音だったのだが(志ん生は1961年の暮れに病気で倒れた。その後復帰したが後遺症で発音がやや不明瞭になってしまった)、しかしその時はそうした伝記的なエピソードのこともあまりよくわかっておらず、単にもう今後は聴かないかもなと思ったのだった。

実際、しばらく志ん生は聴かずにいたが、2年ほどして、図書館でなんとなく落語CDコーナーへ行き、無料だし良いかなと思って志ん生のCDを借りた。本当になんとなくである。ビクターから発売されている、黒地に金文字のジャケットのもので、火焔太鼓、品川心中、鮑のしが収録されていた。

帰って聴いてみたら、むちゃくちゃ面白かった。火焔太鼓の道具屋のちょっととぼけた店主の姿、鮑のしの甚兵衛さんがよい天気の中で大家さんの家を訪ねている様子、こうした「落語の国」の情景が目に浮かぶようで、笑いを堪えられなくなると同時に感動的でもあった。現実の世界では彼らには決して出会えないと思うと、寂しい気持ちすらした。

そこからは志ん生の録音を聴きまくったし関連する本も読み漁った。SP盤も探して聴き、NHKに行って映像も見た。マクラなどで触れる洒落はちょっと時代を感じさせるものの、志ん生の落語は、聴くたびに摩訶不思議な可笑しい世界を見せてくれる。『なめくじ艦隊』などを読んでとんでもない人だなと思い呆れたりもしたが、古今亭圓菊の『背中の志ん生』を読んで素敵な人だなとも思った。

そうこうしているうち、病後の志ん生の録音にも触れることになる。すると、確かに聞き取りにくいのだが、今度は結構わかる。しかも録音によっては、むしろ味があってよいなとも思った(マクラでキューバの「カストラ」(カストロ)の話をしている疝気の虫など)。

いつのまにか病後であろうと聴き取れる「志ん生耳」になっていたのだ。それは志ん生の本を読んだりして志ん生についての(と同時に落語についての)知識を得たこともあるし、志ん生独特の話し方に耳が慣れてきたこともあるだろう。

志ん生の病後の録音は、最初に聴くのはおすすめできない。耳も慣れていないし、聴きにくさを補完する文脈を欠いていると、多分何を言っているかわからないからだ。しかし、それで志ん生をつまらないと思ってしまうのはとてももったいないと僕は思う。 

志ん生の噺の多くのは今聴いてもかなり可笑しい。特別な知識もほとんど要らない(細かく見れば色々背景知識は要るだろうがそれは別に後でも良いと思う)。最初に聴きたいのはやはり1961年以前の録音。シリーズで言えば、ポニーキャニオンの名演大全集シリーズが、聴きやすいものが多い。同じくポニーの「もう一度聴きたい 古今亭志ん生十八番集」というボックスは、病前中心に収録されていて。演目で言えば黄金餅粗忽長屋、一眼国、妾馬あたりが良いと思っている。噺の内容的にも落語らしいバカバカしさや価値の転倒が楽しめるからだ。

というわけで、最初に触れる志ん生の録音についてはやや気を使った方が良いと感じている。面倒といえば面倒だが、CDなら大体パッケージに書いてあるし、ネット配信などでよくわからん場合、例えば以下のようなサイトもある。

http://www.asahi-net.or.jp/~ee4y-nsn/rakugodata/s002_01_shinsho.htm

志ん生の録音が一覧にまとめてあり録音年もわかるページだ。

あるいは保田武宏『志ん生全席落語事典』という大変便利な本もある。CD、DVD化されている音源を、あらすじ、解説付きでまとめている。おすすめ音源も書かれているが、確かに面白くて聴きやすいチョイスが多く、役立つ。

これらで年数を確認して1961年(昭和36年)以前の録音から入ることを強くおすすめしたい。そのうち病後の録音にも独特の味わい深さを感じるようになると思う。

 

という、僕なりの志ん生推しのブログでした。

 

 

五代目 古今亭志ん生(1)火焔太鼓(1)/品川心中/鮑のし

五代目 古今亭志ん生(1)火焔太鼓(1)/品川心中/鮑のし

 
古今亭志ん生 名演大全集 1 火焔太鼓/黄金餅/後生うなぎ/どどいつ、小唄

古今亭志ん生 名演大全集 1 火焔太鼓/黄金餅/後生うなぎ/どどいつ、小唄

 
志ん生全席落語事典―CD&DVD691

志ん生全席落語事典―CD&DVD691

 

みんぱく電子ガイドについてのメモ書き

2015年位に書いたメモなので情報古いです。

国立民族学博物館…1974年(昭和49年)創設、1977年(昭和52年)11月開館

日本万国博覧会アルジェリア館、インド館、オンタリオ州館、スイス館、せんい館[横尾忠則デザイン]、インド館、インターナショナルプレース4[途上国の共同利用館]の跡地)

みんぱく電子ガイド
¶おおもとのコンセプト――博物館から博情報館(博情館)へ
梅棹忠夫の考え
・「ここ〔みんぱく〕は博物館とはいいますが、ひろくものをあつめているのではなく、ひろく情報をあつめている。だから博情報館――博情館だとわたしはいっている(笑)。ここは情報のかたまりなのです」(梅棹忠夫 1999(1983) 「博物館から博情館へ」 『情報の文明学』 p.189)
みんぱくは1970年代から映像情報自動送出装置ビデオテーク(1977年)やメインフレームコンピュータ(1979年にIBM370-138)を導入している

◯博情(報)館での概念の展示
・1993年、梅棹の主張を引き継ぎ、博情館を実現する新しい展示を作る構想
・そのころの、みんぱくの会合で、ある委員から博物館では概念を展示することは出来ないと言われた→「本当にそうだろうか」
・モノによる展示…概念の展示は出来ない
・マルチメディア展示…概念の展示も出来るのではないか(栗田 2000 p.59)
※ちなみに公式サイト開設は1995年

¶実務的な課題
◯外国語の解説
・「民博への外国人来館者のなかで多いのは韓国・朝鮮人であり、つづいて中国人である。それとともに英語での解説パネルも設けると、展示壁は解説パネルで一杯になってしまう。これをどうするかが困った問題であった」(栗田靖之 2002)

◯この展示品はどのように、誰が使うのか
・来館者から多く寄せられる上記の疑問に、専門家がその場で答える必要があるのではないかという問題

¶ビデオテークとの関係
・開館時から設置されているビデオテークに対し、電子ガイドをどう位置づけるか
・電子ガイドは、まず気になったことを調べる事典のようなもの
・ビデオテークは、より詳しく調べるための新書版のようなもの(栗田 2000 p.61)

→こうした一連のコンセプトに基づいて開発されたのが「みんぱく電子ガイド」

¶端末
初代
・1999年5月13日~:携帯情報端末PDA:Personal Digital Assistant)※民博と松下電器株式会社の共同開発
・システム:各展示エリアに設置された赤外線装置が個々の端末の位置情報を取得し、無線LANでサーバーに送信。サーバーからそのエリアのメニューを個々の端末に送信(つまり別のエリアのメニューは閲覧できない)。
・重さ:975グラム
・画面サイズ6インチ(カーナビを参考に)※栗田2002による。ただし栗田 2000では画面は7.8インチと書いてある
・稼働時間80分
・イヤホンジャック2つ
・2000年から英語版、2001年から中国語版が稼働

2代目
・2007年~:ソニーPSP(多分PSP-1000)
・システム:スタンドアロン型。つまりどこでも好きなメニューを閲覧可能。
・重さ:約1/3(PSP-1000なら約280g、2000は約190gなので多分みんぱくのものは1000)
・稼働時間:約4倍(約320分)
・イヤホンジャック1つ
・日本語版、英語版、中国語版、韓国語版

次世代型(実験中)
・2014年に、スマートフォンタブレットを用いた次世代電子ガイドの実験が行われた
iPhoneなどを持って対象エリア内に入ると端末に通知が来て、いろいろ閲覧できる
・つまりネットワーク接続型に回帰する可能性が高い?

参考
大学共同利用機関法人人間文化研究機構「平成19事業年度に係る業務の実績及び中期目標期間(平成16~19事業年度)に係る業務の実績に関する報告書)https://www.nijl.ac.jp/pages/outline/images/gyoumujisseki19.pdf
国立民族学博物館公式サイト「みんぱく電子ガイド」http://www.minpaku.ac.jp/museum/exhibition/main/digitalguide
◯栗田靖之 2000 『みんぱく電子ガイド』 千里文化財
◯栗田靖之 2002「国立民族学博物館における『みんぱく電子ガイド』の開発」、『全科協ニュース』Vol.32. No.6(通巻第187号)http://mobile.kahaku.go.jp/report/feature/news-2-2.html
梅棹忠夫 1999 『情報の文明学』 中公文庫

らららクラシック「スティーヴ・ライヒ」

録画していたEテレ『らららクラシック』のスティーヴ・ライヒ回を観た。

錚々たる人物たちがライヒについて語っていて面白かった。トクマルシューゴの「エレクトリックカウンターポイント」の演奏もかっこよかった。

僕は10代の終わり頃(2000年代半ば)に音楽の授業で「カムアウト」を聴いて衝撃を受け、以来ライヒばかり聴いていたことがあった。

初期作品から聴き始め、新しい作品へと向かっていったのだが、僕はライヒ作品から聞こえてくる、話し声が持つ音楽的な響きやメロディなどに興味があった。伝達の道具としてではなく、響きとして、音楽として、楽器として話し声を使っている、と当時の僕はえらく感動したのだった。

でも「スリーテイルズ」で関心を失った。「スリーテイルズ」では、言葉がメッセージ性に従属しているように思えた。話し言葉の物質的な響きが後ろに退き、伝達の道具としての側面が前面に出てきてしまったような気がしたのだった(ディファレント・トレインズはバランスがうまく取れていたように思った)。しかもそのメッセージもあまり面白みがないなと感じた。なんとなくショックで、それ以降に作られた作品は大して聴かずじまい。やがて初期作品も聴かなくなってしまった。

ということでちゃんと耳にしたのは久々だったが、やはりライヒ作品の音と反復には快感を覚えると改めて感じた。最近の作品も少し聴いてみようかなあと思った。あとライヒだけじゃなくて、ライリーとかヤングとかもたまには取り上げてほしいなあと思ったり。

読み物として面白い落語本

文庫化されたのを機に、三遊亭円丈『師匠、御乱心!』を読んだ。

1970年代末に起きた落語協会分裂騒動。後の時代に生まれた者からするといまいちよくわからない騒動なのだが、この本は、現在の落語(界)のあり方にも影響を与えているその出来事の内実を、小説のかたちをとって描いている。

あくまでも一落語家の立場から描かれた物語であり、この騒動に対する別の見方や描き方はあるだろう。だがそれは当然のこと。むしろ、あくまでも一落語家の視点を貫いているからこその独特の説得力がある。圓生の弟子として、騒動によって人生を大きく左右されたと言える若き落語家が、何としてもこの騒動の顛末を伝えようとした情熱(情念?)のようなものを感じることができる本であり、しかも文章が冴えていて読み物として面白い本だった。

 

師匠、御乱心! (小学館文庫)

師匠、御乱心! (小学館文庫)

 

 

安楽庵策伝『醒睡笑』の笑いと落語の笑い

落語の祖とも言われる僧侶・安楽庵策伝がまとめた『醒睡笑』を初めて読んだとき、これは普段寄席や録音で聴いて面白いなと思っている落語と、似ているけれども何かが少し違うとも感じた。

確かに「平林」の原話など、現代でも楽しまれる落語の原初的な姿がある。その意味では、現代の落語に通じる面白さがある。

ところが『醒睡笑』で笑われるのは身分の低い者、間の抜けた者である。僕がこの本を読んで、落語とは何かが違うと感じた点はここだ。『醒睡笑』は、安楽庵策伝が、京都所司代・板倉重宗に献上した本である。いわば特権的な地位にいた人物を笑わせるために作られている。上の者が下の者を笑うという構図になるのも不思議ではない。

もちろん現代の落語でも間の抜けた者、身分の低い者が登場し、滑稽な振る舞いをするが、むしろ落語の場合、そうした者たちの振る舞いが、秩序に亀裂を入れてしまうような瞬間が楽しい。

秩序から外れていることの愚かさを笑うのか、それとも秩序にちょっと亀裂を入れる快感を楽しむのか。『醒睡笑』の笑いは前者の性格を持っている。他方、落語は後者の性格が強いだろう。似たような内容の話でも、どこに向けて話されるのか、どんな場で話されるのかによって全く異なる性格を持つものなのだな、と思う。